Skip to content

 先日,ある会議の中で30代の方が,『小学校から高校まで野球をしていた。「挨拶ができない者は,野球が上手になるわけがない。」とずっと教えられてきた。「なぜ,挨拶ができないと野球が上手にならないのか」等と疑問を抱いたことはただの一度もなかった。それが当たり前だと思っていた。そして,今,大人になってもそう思っている。人は挨拶ができなければいけないものであり,挨拶すらできない人は何もできはしない。』と言われたのです。
 正直,私たちは,学校という小さな社会で生活していると,社会人として働く人々の価値観からどうしてもズレてしまうことがあります。「中学生は,思春期を迎えると挨拶ができなくなる。挨拶の声が小さくなるものだ。」と納得してしまい,挨拶の大切さを指導しながらも中学生の現状を受け入れてしまう傾向があるのです。
 そんな時,「人は挨拶ができなければいけないものであり,挨拶すらできない人は何もできはしない」という話を聞き,自分自身の在り方を反省させられたのです。
 オリンピックの女子マラソンのメダリストである高橋尚子さんを育てた小出義雄さんの言葉に『挨拶といっても,黙礼だけの挨拶では意味がない。ちゃんと顔を上げて,声を出すことが肝心なのだ。』という言葉があります。
 挨拶に対する地域の方や小出義雄さんの言葉にあるように,挨拶は,生きていく上で絶対必要なものであり,中学生にとっても大切なものなのです。
 今,君たちの挨拶の声が少し小さくなったような気がします。ぜひ,君たちの元気な挨拶を再度校内に響かせてください。期待しています。

 人は,今自分が抱えている課題を自分自身に問題があるのではなく,周りに原因があると考えてしまいがちなものです。
 例えば,今君たちは,文化祭へ向けて劇や展示等練習に一生懸命取り組んでいると思いますが,なかなか思うように進まず「もっと時間があれば…」「もっと友だちが協力してくれれば…」「もっと,もっと」と上手くいかないのは,「時間がないから」「友だちが悪いから」等と自分自身の中にある課題には目を向けず,原因は周りにあるんだと自分を正当化していませんか。
 しかし,上手くいかないのは周りにあると考えている限り,残念ながら課題解決への道程は遠のいてしまいます。自分を正当化してしまうと自分自身の課題から目を背け,周りへの責任を追及する事だけになり,自分自身を改善する機会を失ってしまうのです。このことは,イソップ童話の「酸っぱいブドウ」のキツネと同じです。お腹を空かせたキツネは,美味しそうなブドウを見つけ,食べようと一生懸命に跳び着きますが,ブドウは木の高い所にあって届きません。キツネは,何度跳んでも届かず「どうせこのブドウは酸っぱくてまずいから,誰が食べてやるものか」と負け惜しみを言い,ブドウを取る努力を諦めてしまうのです。
 もし,ブドウを見つけたのが君だったら諦めますか。それとも何か方法を見つけブドウを取ろうとしますか。今,「時間がなくてもやり遂げるにはどうしたら良いだろうか?」「友だちと一緒に力を合わすにはどうしたらいいだろうか?」と自分自身に問いかけるだけで,課題解決の光が見えてくると思います。
 文化祭まであと4日,限られた時間の中で諦めずに,気張ってください。

 「学校が,明るいですね」。この言葉は,先日,志布志中を訪問された高等学校の校長先生が校長室に入られて最初に言われた言葉です。
  今,学校に入ると,校門前のプランターに色とりどりの花が咲き乱れ,自転車小屋には整然と自転車が並び,校舎内にゴミや紙くずが落ちている情景を見かけることが少なくなりました。
 この事は,君たちが,生徒会を中心としたボランティア活動や週3回しかない清掃活動に一生懸命取り組んでいる証だと思います。
 『場を清める』の「場」とは,生活環境のことであり,心と体が存在する場所のことを表し,「衣・食・住」の全てをまとめて「場」と表すと言われています。。
 つまり,『場を清める』とは,心と体の状態を整えるために「場」を整えることであるという事を私たちに教えてくれている言葉だと思うのです。
 ある僧侶の方が,「お坊さんになるまでは掃除が嫌いで嫌いで仕方ありませんでした。しかし,お寺では,お経を読むことよりも,まず掃除を一生懸命にすること教えられてます。掃除は,その場所をきれいにするためだけではなく,自分自身の心を整えるためにするものだという事を教えられるのです。そして,毎朝の掃除によって,掃除に対する考えが変わりました。」と言われています。
 『場を清める』ことは,『心を整える』事と捉え,これからも今まで以上に清掃活動やボランティア活動に取り組んでくれることを心から期待しています。        今日は,「8時5分生徒玄関通過,8時10分着席」100%15日目を達成しました。