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令和3年11月24日(水)
「自分の感受性(かんじゅせい)くらい」
 今日は,茨木(いばらぎ)のり子さんの「自分の感受性くらい」の詩を紹介します。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つ(いらだつ)のを
近親(きんしん)のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心(しょしん)消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目(だめ)なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳(そんげん)の放棄(ほうき)

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 この『自分の感受性くらい』の詩は,四半世紀(しはんせいき)を共に暮らした夫に先立たれた2年後に出された,茨木(いばらぎ)のり子さんの代表作です。『自分の感受性くらい』の詩は,かつて戦争で生活から芸術や娯楽(ごらく)が消えていった時に,茨木のり子さんが思っていたこと考えていたことを詠い(うたい)あげたものです。

令和3年11月22日(月)
学ぶ心(松下幸之助)
 自分ひとりの頭で考え,自分ひとりの知恵で生みだしたと思っていても,本当はすべてこれ他から教わったものである。
 教わらずして,学ばずして,人は何一つ考えられるものではない。幼児は親から,生徒は先生から,後輩は先輩から。そうした今までの数多くの学びの上に立ってこその自分の考えなのである。自分の知恵なのである。だから,よき考え,よき知恵を生み出す人は,同時にまた必ずよき学びの人であるといえよう。
 学ぶ心さえあれば,万物(ばんぶつ)すべてこれわが師である。
 語らぬ木や石,流れる雲,無心(むしん)の幼児,先輩のきびしい叱責(しっせき),後輩の純情(じゅんじょう)な忠言,つまりはこの広い宇宙,この人間の長い歴史,どんなに小さいことにでも,どんなに古いことにでも,宇宙の摂理(せつり),自然の理法がひそかに脈づいているのである。そしてまた,人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。
 これらのすべてに学びたい。どんなことからも,どんな人からも,謙虚(けんきょ)に素直に学びたい。すべてに学ぶ心があって,初めて新しい知恵も生まれてくる。よき知恵も生まれてくる。学ぶ心が繁栄(はんえい)への第一歩なのである。