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令和2年7月7日(火)
棚からぼた餅(もち)
 「ぼた餅」とは,餅米,あるいは餅のようについた米などをお濁りのように丸く握り,底に甘く煮た小豆の餡(あん)やきな粉,ゴマなどをつけたものです。
 煮た小豆(あずき)を粒が残ったまま散らかしたのが,萩(はぎ)の花の咲き乱れる様子に似ているところから,「おはぎ」または,「はぎの餅」とも言います。ぼた餅の名は,その様子が牡丹の花に似ているところから名付けられました。
 ぼた餅は,牡丹(ぼたん)の季節,春のお彼岸に食べるもののことで,あずきの粒をその季節に咲く牡丹に見立てたものです。一方,おはぎは,萩の季節,秋のお彼岸に食べるもののことで,あずきの粒をその季節に咲く萩にに見立てたものです。ですから,春はぼたもち,秋はおはぎと春秋使い分けないといけないのですが,今は年中おはぎで通す小売店が多いようです。
 いずれにしても,昔はぼた餅はご馳走でした。ぼた餅は砂糖をたっぷり使い甘い食べ物だったので,甘いものが少ない昔の時代は庶民にとって大変貴重なおやつだったのです。
 そんなところから,お祭りやお祝いの席やお客様への最高のおもてなしには欠かせないぼた餅でした。そんな庶民にとって有り難く嬉しい食べ物であるぼた餅が,自分で努力をせずに,突然棚から自分のところまで転げ落ちてくるのです。これが,「棚からぼた餅」です。皆さんの感覚からしたら,「ぼた餅くらいで!」と思うかも知れませんが,甘いものが少ない昔の時代には,大変貴重な食べ物であり,受け取った人は驚くと共に大喜びしたことでしょう。
 そんなことから,何の苦労もせず,思いがけず幸運に恵まれることを指して「棚からぼた餅」と言うようになりました。
 「棚からぼた餅」を短くして「棚ボタ」と言うこともあります。皆さんは,「棚ボタ」即ち「棚からぼた餅」を期待し,願い事を書いた短冊を笹の葉に吊るすだけで,何の努力もせず幸運を待つようなことが無いようにしましょう。そして,成果を期待するのであれば自ら汗をかき,努力した上で願うようにしましょう。

令和2年7月2日(木)
島津日新公のいろは歌
 日新公いろは歌は,島津家中興の祖で,島津義弘の祖父でもある島津忠良(ただよし:号は日新斉・じっしんさい)が,5年余の歳月をかけ完成させた47首の歌です。日新公いろは歌は,薩摩藩の郷中教育の基礎となったと言われています。ちなみに,島津家中興の祖「島津忠良」の母は,志布志生まれの島津常盤(しまづ ときわ)です。令和の時代でも何かしらの参考になると思いますので,紹介します。

いろはの「い」
い いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし
  「いにしへ」とは昔のことです。昔の偉(えら)い人の立派な教えや学問も耳で聞くだけ,口に唱えるだけでは,何の役にも立ちません。自分自身が実践したり実行したりすることが最も大事なことなのです。
いろはの「ろ」
ろ 楼(ろ)の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは 高き いやしき
  立派な御殿に住んでいようと,粗末な小屋に住んでいようとも,それで人間の価値は決まるものではありません。心の在り方によってこそその人が尊いのか,卑しいのかの真価が決まるのです。
いろはの「は」
は はかなくも明日の命を頼むかな 今日も今日と 学びをばせで
明日のことは誰もわからない。勉ぶことを明日に引き延ばしたとしたら,もし明日自分が死んだらどうするのですか。今この時この瞬間を大切にすべきです。
 もう一度,いろはの3首を繰り返します。
い いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし
ろ 楼(ろ)の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは 高き いやしき
は はかなくも明日の命を頼むかな 今日も今日と 学びをばせで