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野井倉甚兵衛さん

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最後までゆめをあきらめないでがんばった
甚兵衛さんです。

 

 むかしの野井倉は火山灰であれ地でした。そこでは、カライモ、そば、あわなどが作られ貧しい土地でした。 甚兵衛さんは、この貧しい土地を何とか米土地にしたいと考えました。
 そのころは、カライモ8表で米1升と同じくらいの価値だったのです。

決心

 前田正名の講演会で「日本を起こすには産業が大切だ。その元になるのが農業だ。」という言葉に納得しました。
 そこで、野井倉甚兵衛さんが17歳のときに荒れ野に水を引いて立派な田んぼを作る決意をしました。そして、19歳のときに野井倉に水を引く計画を立てました。でも、まだ若かったので村民が相手にしてくれませんでした。
 そのときの協力者はたったの7人でした。

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土地の様子

 左の地図にもあるよう、中央に菱田川が流れていますが、長さが39キロの県内第3の大川です。
 この川は、シラス台地を流れているうちに深い谷を作っていきました。
 谷間のゆるやかな部分が田畑に利用され、両岸の台地は、広大な荒れ野でした。
 この川の西が蓬原台地、東が野井倉台地です。

失敗
 協力してくれる村民7人と甚兵衛さんは、市柴から水を引こうとしましたが、野井倉までの距離が長く、また丘がいくつもあり野井倉まで届きそうも無かったので、この計画は失敗におわりました。
馬場藤吉
 甚兵衛さんといったら、馬場藤吉さんもとても重要な協力者です。
馬場藤吉さんは、村を豊かにしたいという同じ志で出会った仲間ですが、藤吉さんは医者になり、役に立ちたいという思いで、医者になりました。
医者となったあとも藤吉さんは甚兵衛さんを励まし、また、自分は蓬原開田を作ることにしました。そのためにまず組合を作りました。日露戦争の間は資金を集めることができず、5、6年がむなしく過ぎていきましたが、戦争が終わり、やっと資金の借り入れに成功しました。
 馬場さんを中心に水路の拡張工事が始まりました。村民の意気込みもあり、工事は進んでいきました。しかし、台風がやってきました。せっかく作った水路が増水のため、切れてしまいました。
 そのような困難もありましたが、無事に工事が終わり、その後47歳の働き盛りで藤吉さんは亡くなってしまいました。
 実は、こんなにも藤吉さんががんばれたのは、甚兵衛さんが助け励ましてくれたからです。
その後
 一時はすっかりきを落とした甚兵衛さんでしたが、もう一度立ち上がりました。そして、村会議員や耕地整理組合長になって野井倉開田を県や政府にうったえつづけました。そして、政府も協力し始めたころ、満州事変が起こりました。そのため、青年は兵士として招集されていきました。その後、日米戦争となり日本は世界を開いてに戦わなくてはならくなりました。また、開田予定の土地が、海軍の飛行場として取り上げられてしまいました。このとき甚兵衛さんはすでに70歳でした。
戦争が終わり
 いよいよ農林省が開田工事をはじめました。甚兵衛さんの努力で政府を動かしの多です。
 ところが、アメリカの進駐軍の司令官が反対し、工事が中断しました。
 甚兵衛さんは何度も説得し、やっとまた工事がはじめられました。
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開通の日
 13キロの間に34ヶ所のトンネルをくぐってやっと完成しました。
 通水の日は1949年の6月5日です。たくさんの人々が集まり待っている中、水が流れてきました。その流れの中に船に乗った甚兵衛さんが現れたのです。
 このとき甚兵衛さんは実に77歳でした。
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トンネル入り口 下平のちんさ池