Skip to content

みんなの仲間になりたい

3年前の新任式の日、私は子どもたちに、ひとつの願いを伝えました。
「僕は、みんなの仲間になりたい」
そう話した日のことを、今でもはっきり覚えています。

「仲間」という言葉は、「友だち」と少し似ているけれど、少し違います。
仲間とは、ただ仲よくするだけの存在ではなく、同じ願いに向かって、いっしょに歩いていく存在だと思っています。

伊﨑田小学校で、その願いは何か。
それは、みんなのウェルビーイング、みんなが幸せであることです。

うれしいときに、いっしょに笑えること。
苦しいときに、そばにいられること。
困ったときに、話を聞いたり、手を差しのべたりできること。
ひとりではがんばれないときに、「だいじょうぶだよ」と言えること。
そんなことができるのが、仲間だと思っています。

あの日、「みんなの仲間になりたい」と言った私は、
この3年間、ずっとその思いを胸に、みなさんと過ごしてきました。

朝、元気にあいさつしてくれる声。
一生懸命がんばる授業中のまなざし。
運動会や学習発表会で見せてくれた真剣な顔。
友だちと笑い合う姿。
くやしくて涙をこらえる姿。
やさしく手を差しのべる姿。
そのひとつひとつが、今、私の心の中によみがえってきます。

みなさんと過ごした毎日は、決して特別なことばかりではありませんでした。
けれど、何気ない毎日の中にこそ、たくさんの宝物がありました。
廊下ですれ違うときのひと言。
教室で見せてくれた笑顔。
がんばっている姿。
少しずつ成長していく姿。
私は、そのひとつひとつに、何度も力をもらってきました。

そして今、最後のブログを書きながら、自分にそっと問いかけています。
「校長先生は、みんなの仲間になれたかなあ」 と。

みんなが幸せになるために、少しでも力になれたでしょうか。
悲しいとき、苦しいとき、不安なときに、安心できる存在になれていたでしょうか。
みんなの笑顔を守るために、ちゃんとお手伝いができていたでしょうか。

一生懸命やってきたつもりです。
けれど、振り返れば、できなかったこともあります。
もっと声をかければよかった、もっと支えられたかもしれない、そんな思いもたくさんあります。
校長先生として過ごした3年間は、喜びだけでなく、反省や悩みの連続でもありました。

それでも、たったひとつ、胸を張って言えることがあります。
それは、「みんなの仲間になりたい」という気持ちは、一度も変わらなかったということです。

うまくできた日も、できなかった日も、
私はずっと、みんなの幸せを願っていました。
みんなが笑って学校に来られるように。
安心して過ごせるように。
「今日も学校に来てよかった」と思えるように。
そのことを、いつも心の真ん中に置いてきました。

もしも、みなさんがどこかで、
「校長先生、話を聞いてくれたな」
「そばにいてくれたな」
「応援してくれていたな」
そう感じてくれていたなら、私は本当に幸せです。
もし少しでも、みんなの仲間になれていたのなら、それ以上うれしいことはありません。

お別れはさみしいです。
もう毎日みなさんに会えなくなると思うと、胸がぎゅっとなります。
校庭に響く声も、教室の空気も、みなさんの笑顔も、きっとこれから何度も思い出すでしょう。
でも、お別れは終わりではありません。

これから先も、私はみんなの仲間です。
伊﨑田小学校で出会ったみなさんのことを、ずっと応援しています。
みなさんがこれから出会う新しい毎日の中で、
悩んだり、迷ったり、立ち止まったりすることがあるかもしれません。
でも、どうか忘れないでください。
みなさんは、ひとりではありません。
支えてくれる仲間がいます。
信じてくれる人がいます。
そして、離れていても、校長先生もそのひとりです。

みなさんのこれからの成長が、本当に楽しみです。
どんな人になっていくのか、どんな夢に向かって歩いていくのか、私はずっと楽しみにしています。

3年前、
「僕は、みんなの仲間になりたい」
そう伝えたあの日の気持ちは、今も変わりません。

これまでも、これからも、みんなの仲間です。

伊﨑田小学校のみなさん、
本当にありがとう。
みなさんと出会えて、私は幸せでした。

本日行われました卒業式の学校長式辞の一部です。卒業生に一番伝えたいメッセージを込めました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

皆さんにどうしても伝えたいことが、一つあります。

「人生は、楽しい」です。

人生はひとつの大きな舞台です。

その舞台の中には、たくさんのシーンがあります。

うまくいって思わずガッツポーズをするシーン。悔しくて涙が出るシーン。悲しくて、苦しくて、未来が見えなくなるシーン。

でも、どのシーンも、皆さんの人生というストーリーには欠かせないものです。苦しいシーンがあるから、喜びのシーンが輝く。悲しいシーンがあるから、やさしさが深まる。

シーンが多ければ多いほど、ストーリーは豊かになり、人生はもっと充実していく。だから、つらいことも悲観する必要はない。そのシーンも、ちゃんと皆さんの物語の一部です。

皆さんには、ここで身につけた、考える力、やさしさ、あきらめない心があります。自分で考え、自分で決める力があります。だから、大丈夫です。

 

チーム担任制については、さまざまなご批判をいただきます。
「責任がぼやけるのではないか」
「子どもを深く見られなくなるのではないか」
「先生間の共有が回らないのではないか」
「結局、人手不足を制度でごまかしているだけではないか」
どれも、私は的を射た批判だと思っています。

まず率直に申し上げたいのは、私はチーム担任制を“完成された理想の制度”だとは思っていないということです。
むしろ、これだけで学校の課題が解決するとも思っていません。
言い方は慎重であるべきですが、いわばこれは抜本改革というより、今の学校現場でできる現実的な改善策のひとつです。

では、なぜそれでも取り組むのか。
それは、今まさに目の前で苦しんでいる子どもたち、先生方、保護者の皆さんがいるからです。
特に私は、苦しんでいる若手教員を何とか支えたいという思いを強く持っています。
一人の担任が、学級経営、授業、生徒指導、保護者対応、事務処理まで抱え込み、追い詰められていく。
その姿を見ながら、「理想の制度が整うまで待とう」とは、私には言えませんでした。


1. 「責任がぼやける」への考え

この批判は、その通りだと思います。
複数で見る以上、何もしなければ責任の所在はあいまいになります。
だからこそ、チーム担任制は「みんなで見る」だけでは成立しません。
“みんなで見る”と同時に、“誰が最後まで受け持つかを明確にする”ことが必要です。

私たちの学校でも、全員で関わる一方で、個々の子どもや案件については、必ず中心となる教員を決めています。
チームで支え合うことと、責任を曖昧にすることは、同じではありません。
むしろ私は、一人に責任を集中させすぎないことと、最終責任を不明確にしないことの両立が大切だと考えています。


2. 「子どもを深く見られなくなる」への考え

これも非常によく分かる批判です。
小学校では、子どもを深く理解し、日々の変化に気づくことが何より大切です。
その意味では、一人の担任が濃く関わるよさは、確かにあります。

ただ、私は一方で、一人だけの目で深く見ることには限界もあると感じています。
一人の先生には見えにくい子どもの表情や変化が、別の先生には見えることがあります。
ある先生には話せないことを、別の先生には話せる子もいます。

もちろん、複数で見るだけで自動的に子ども理解が深まるわけではありません。
ですが、今の子どもたちの多様さを考えると、「一人の深い理解」だけでなく、「複数の大人による多面的な理解」も必要な時代だと感じています。
私たちは、一人の担任が深く見るよさを手放すのではなく、チームで補いながら、より立体的に子どもを見ることを目指しています。


3. 「先生間の共有が回らない」への考え

これも、その危険は現実にあります。
共有が回らなければ、チーム担任制はうまくいきません。
むしろ、共有が不十分なら、従来の学級担任制より混乱することすらあります。

ですから、私はチーム担任制の本質は“制度”そのものではなく、対話と共有の文化を学校の中につくれるかどうかだと思っています。
時間も手間もかかります。
正直に言えば、面倒です。
しかし、その面倒なことを飛ばして、この制度だけを形だけ入れてもうまくいきません。

だからこそ私たちは、短い時間でも毎日顔を合わせること、気になる子どもの情報を小さなことでも出し合うこと、若手が一人で抱え込まないことを大切にしています。
共有はコストではありますが、私はそれを「事故を防ぐための必要な投資」だと思っています。


4. 「結局、現場の人手不足を制度でごまかしているだけでは」への考え

この批判は、最も重く受け止めなければならないと思っています。
本来必要なのは、十分な教員配置であり、学校への人的支援であり、持続可能な教育条件の整備です。
それが十分でないまま、制度の工夫だけで乗り切ろうとすることには、限界があります。
その意味では、「ごまかしではないか」という指摘に、耳をふさいではいけないと思っています。

ただ私は、それでも何もしないことのほうが無責任だとも思っています。
人が足りない。現場は厳しい。若手は苦しんでいる。
だからこそ、「人が増えるまで待つ」のではなく、今いる教職員で少しでも支え合える形をつくりたい。
それがチーム担任制に取り組む理由です。

つまりこれは、人手不足の問題をごまかすためではなく、
人手不足という厳しい現実の中で、目の前の子どもと先生を少しでも守るための応急策であり、現時点での最善策のひとつだと考えています。


チーム担任制は、決して万能ではありません。
課題もあります。批判される理由もよく分かります。
私自身、これがベストだと言い切るつもりはありません。

それでも、今の学校には、
一人の強烈な個の力に頼るだけでは支えきれない現実があります。
だからこそこれからは、「強い個人」だけでなく、「総合的なチームの力」で子どもを支える学校が必要だと考えています。

完璧ではなくても、未完成でも、今できる最善を尽くす。
その中で、苦しんでいる子どもたちを、若手教員を、そして保護者の皆さんを、少しでも支えたい。
チーム担任制は、そのための一つの答えです。

「チーム担任制」に取り組んできた中で、嬉しいことはたくさんありますが、とりわけ「自走するチーム」が育っていることは、私にとって大きな喜びです。

チーム担任制と教科担任制では、児童に関する情報を共有し合うなど、チーム内でのコミュニケーションが欠かせません。「その分、負担が増えるのでは」というご意見も見受けられますが、このコミュニケーションの本質は、本校の職員室スローガンである「ひとりでしない ひとりにしない。」にぴたりと重なります。

チームはコミュニケーションを重ねながら、様々なことを話し合い、決めていきます。「変わらないことは、変わり続けること」を合言葉に、変化を恐れずチャレンジしています。そこに管理職からの、いわゆる「介入」はほとんどありません。アドバイスを求められたときは一緒に考えますが、基本的にはチームに委ねています。

これが、まさに「チームが自走している状態」です。

文部科学省は、「教師の学びの姿も、子供たちの学びの相似形」というメッセージを発信しています。私たちは、自分の仕事を自分たちで決めることが自分たちのウェルビーイングにつながると信じています。そして、その姿勢が子どもたちの手本となるよう、日々の教育活動に臨んでいます。

40分授業の中で生まれる5分を積み重ねたイサキダタイムの30分を「余白」と表現しましたが、導入当初からその目的は明確でした。

「学習者がそれぞれの興味・関心や学習進度に応じて、教科や学習内容・形態を自ら選択・決定し、学び合う時間」

肝心なのは、「選択し、決定すること」です。

学校はこれまで、あまりにも「許可システム」として機能しすぎていたのではないでしょうか。「トイレに行っていいですか?」「給食を残していいですか?」――こうした場面に象徴されるように、過度な「管理」が優先されるあまり、人間が本来もつ選択・決定の自由が奪われてきた面が少なくありませんでした。

学習においても同じことが言えます。とりわけ宿題は顕著です。家庭での時間の使い方に対して、学校が学習の時間と内容を一方的に決めてしまうことは、甚だ僭越な行為と言わざるを得ません。本来、宿題とは子ども自身が考え、家族とも相談しながら決めていくものではないでしょうか。

宿題に限らず、「今日の算数がまだ終わっていないから、少し復習しよう」と自らの学びを振り返り、次の行動を決めていく――そうした「自己決定」の積み重ねの中にこそ、大きな成長があると考えました。それがイサキダタイムを設けた理由です。

 

午前5時間40分授業による「削られた5分」から生まれたイサキダタイム(30分)は、次期学習指導要領を検討する中央教育審議会で議論されている「調整授業時数制度」として注目されています。そのキーワードのひとつが「余白」**です。

「子どもにも先生にも、もっと余白の時間を」この「余白」という考え方は、イサキダタイムの理念と完全に一致しています。

学校では、授業以外にもさまざまな場面で時間が必要になります。連絡事項の伝達、各種アンケートの実施、プリントの配布、そして時に必要となる「説諭(いわゆる説教)」などがその例です。しかし現実には、こうした突発的な出来事に充てる時間を確保することは容易ではありません。

そこで私はこう呼びかけています。

「午前中はしっかりフルタイムで授業を行ってください。細々とした用事はイサキダタイムを活用してください。」

この日課表には、午前中を学習に集中できる落ち着いた環境として守るという効果があります。

「午前5時間40分授業」と30分の「イサキダタイム」、どちらをしたかったのかと言えば、「どちらも」というのが正解です。

「午前5時間40分授業をやりたいからイサキダタイムをつくった」とも言えますし、「イサキダタイムをつくりたいから午前5時間40分授業にした」とも言えます。

それほど、どちらも意味のあるものです。

まず、午前5時間40分授業では、1時間あたりの授業時間が1割減となります。これは、自分の授業を大幅に見直さなければならないことを意味します。校長からのアドバイスはひとつだけ。「まず、無駄を削ってください」

教科担任制では、同じ授業を繰り返すことで授業が洗練されていくと書きました。まさしく、「無駄が削れる」からです。無駄が削れれば、それはシンプルに「いい授業」へとつながると確信しています。導入当初は、苦戦する先生方の姿も見られましたが、今では授業時間が延びることなく、その時間内に収めることができています。

チーム担任制とともに注目を集めた取り組みがあります。伊﨑田小では、通常の「午前4時間45分授業」に代えて、令和6・7年度より「午前5時間40分授業」を実施しています。

令和6年12月、新しい学習指導要領の検討が始まった頃、「授業5分短縮、学校裁量で」という見出しが話題になりました。これを受け、「すでに取り組んでいる伊﨑田小は特例校なのか?」という問い合わせが多数寄せられました。結論から言えば、特例校ではありません。どの学校にも認められた裁量の範囲内で実践したことです。

各授業から短縮した5分を積み重ね、1日30分のまとまった時間を生み出しました。この時間を「イサキダタイム」と名付けました。

実は、最初に思い描いた名前は「トモエの時間」でした。黒柳徹子さんの著書『窓際のトットちゃん』に登場する「トモエ学園」から取った名前です。「トモエ」という響きには、子どもたちの主体性をもっと伸ばしたいという願いを込めていました。

(明日へ続きます)

 

「チーム担任制では、責任の所在が曖昧になるのではないか」というご指摘をいただくことがあります。答えはシンプルです。

学級経営の責任はチームが負う。授業の責任は授業担当者が負う。

それ以外および最終的な責任は校長が負う。

以上です。


実は、小学校における教科担任制がなかなか定着してこなかった背景のひとつに、この「責任」の問題があります。授業がうまくいかないとき、その責任がクラス担任に向けられることがありました。確かに、学級経営が安定しているクラスでは授業もしやすくなります。だからこそ、「授業の成否を担任の学級経営に求めたい」という気持ちも、自然なことだと思います。

しかし、チーム担任制のもとで教科担任制を行うと、このギャップが生じません。

「授業がうまくいかない」→「学級経営に課題がある」→その改善に動くのはチーム自身です。

問題が他人事ではなく、「自分事」になるのです。


伊﨑田小学校の研究が導いた結論は明快です。

「チーム担任制」×「教科担任制」——この組み合わせの相性は、抜群によい。

「チーム担任制をしたいのだけど、とりあえず教科担任制だけになりました。」というお話をいただくことも少なくありません。小学校では、教科担任制への移行が急速に広がっています。そのメリットは、多いと思います。

担当教科について深く学ぶことができる。これが、複数学級を担当すれば、はっきりと表れる効果でしょう。同じ授業を繰り返すことで、2回目・3回目はより上手にできるようになります。それは、「無駄を削れる」からです。

無駄のほとんどは「教師のしゃべり」の中にあります。教師の言葉を削ることで子どもの理解が深まることを実感し、そのまま次の授業へのフィードバックとして活かせます。そうやって、授業の腕を磨いていくことができるのです。

単学級の伊﨑田小は、同じ授業をすることはできませんが、もちろんメリットがあります。先生方からよく聞かれるのが、「2学年分の系統性がよく分かった」という言葉です。例えば、3年生と4年生の算数を担当していれば、単元によっては3年生の学習が一年後に4年生の内容へと続いていることが見えてきます。どこでつまずきやすいか、そして次学年の学びにどうつなげればよいかが、自然と見通せるようになるわけです。

伊﨑田小の教科担任制は、原則チーム内で行っています。とりわけ、初任者が4年間で満遍なく教科指導を経験できるよう配慮することを第一に考えています。

本校のチーム担任制には、いわゆる「リーダー」という役割を設けていません。しかし実際には、自然とそれを担ってくださっている先生方がいます。

特に、制度をスタートさせた令和6年度に中心となって引っ張ってくださった先生には、感謝してもしきれない思いがあります。

これまでお話ししてきたとおり、小学校の先生は「自分が理想とする学級を自分の手で育てたい」という強い思いを誰もがお持ちです。

チーム担任制は、その思いを「いったん脇に置いていただくこと」からスタートします。力量のある先生ほど、それは容易に受け入れられないことだと、十分に承知しています。それでも本校の職員は、「チームへ貢献することの大切さ」へと意識を切り替え、とりわけ「若手の育成」に目を向けてくれました。

忘れられない言葉があります。昨年度、チームリーダーを担ってくださった先生に初めて個別にご相談に伺った際、先生はこうおっしゃいました。

「面白そうですね。ぜひ、やりましょう。」

その一言を聞いた瞬間、本校のチーム担任制は必ず成功すると確信しました。

「同僚性」という言葉が学校現場にもよく用いられます。

「同僚性を高める」ことは、現場にチームの生産性向上やトラブルの未然防止など、多くの恩恵をもたらします。

個々人の力量がいかに優れていても、それだけでは組織としての強さには限界があります。チーム単位での連携、さらには学校全体に同僚性が根付いていくことに、私は大きな期待を寄せています。

そのための方策は数多くありますが、なかでも「仕事上での成功体験を積み重ねること」は欠かせない要素だと確信しています。華々しい大きな成功よりも、日々の小さな成功の積み重ねこそが、チームの土台を着実に強固なものにしていくと実感しているからです。

一方、あえて申し上げたいことがあります。私がそれほど重視しないのは「仲の良さ」です。誤解を恐れずに言えば、「互いに気持ちよく、きちんと仕事を遂行し合える関係」こそが、同僚性の本質だと考えています。馴れ合いはなく、プロフェッショナルとしての信頼と敬意に基づいた関係性——それが、真に強いチームをつくる礎になると信じています。

本校の令和7年度のチーム担任制は、低学年(1・2年)、中学年(3・4年)、高学年(5・6年)の3ブロックに分け、それぞれ3名のチームで構成しています。

チーム担任制を導入したからといって、特別に教員が増員されるわけではありません。教員数は通常の定員どおりで、通常学級6クラス(1学年1学級)の担任6名、特別支援学級2クラスの担任2名、理科専科1名の、計9名で運営しています。

本校の特別支援学級の担任は、朝の会や給食指導など、日常的にチームの一員として活動しやすい環境にあります。ただし、これは在籍児童の状況によって学校ごとに大きく異なるため、一概には言えません。

だからこそ、

「この体制こそが、今年度の伊﨑田小におけるチーム担任制の最適解である。」

と考えています。

チームで取り組むことは、先生一人ひとりに心理的安全性をもたらします。安心できる環境の中で小さな成功体験を積み重ねることが、個々の自信へとつながり、さらにはチーム全体の同僚性(チームワーク)の構築にもつながっていくと考えています。

 鹿児島県教育委員会から令和7年度「「体力アップ!チャレンジかごしま」の年間ランキングが発表されました。「長縄エイトマン」におきまして、本校からベスト10に2つの学年が入りましたので紹介します。

本校では、今年度、全学年で「長縄エイトマン」に取り組んできました。全ての児童が精一杯取り組み、運動をする習慣が確実に身につきました。

種目 【長縄エイトマン】
2年生学級 鹿児島県で 5位 記録3分間で281回
4年生学級 鹿児島県で10位 記録3分間で315回