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令和2年12月21日(月)
秋の田の かりほの庵(いお)の苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は露にぬれつつ
 皆さんは,百人一首の「秋の田の かりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は露(つゆ)にぬれつつ」の句をご存知ですか。
 これは,我が志布志の地名を名付けたとされる天智天皇(てんじてんのう)の句です。天智天皇とは,即位前は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とともに大化の改新をなし遂げ,天皇に即位しました。天智天皇はつくった句が百人一首に採用されるほど,才能あふれた方でした。
 仮庵(かりほ)とは「かりいお」がつづまったもので,農作業のための粗末な小屋のことです。秋の稲の刈り入れの時期には臨時的に小屋を立て,稲が野生の動物に荒らされないよう泊まり番をしていました。仮庵(かりほ)の庵(いお)とは語調を整えるためです。
 苫(とま)をあらみの苫(とま)はスゲやカヤで編んだ菰(こも=むしろ)のことです。この意味は「苫(とま)の編み目が粗(あら)いので」です。
 衣手(ころもで)とは,和歌だけに使われることば「歌語(かご)」で,衣(ころも)の袖(そで)のことです。
 全体の意味としては,「秋の田圃(たんぼ)のほとりにある仮小屋の,屋根を葺(ふ)いた苫(とま)の編み目が粗(あら)いので,私の衣(ころも)の袖は露に濡れていくばかりだ。」です。農作業で泊まり番をする農民の夜を描いた一首です。農作業というと辛(つら)いことばかり連想されがちですが,ここではそういう実感は少なく,夜に静かに黙想しているような静寂さと,晩秋の夜の透明感がより強く感じられる非常に思索的な歌です。天皇という立場の天智天皇は農家の習慣や,心持ちを理解されていたということがわかります。私は,現天皇陛下がお田植えや稲刈りなど,稲作に携わっていらっしゃることにもつながっているように感じています。
 私には,この歌がフランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーの作品である「(ばんしょう)」のように静かで思索的(しさくてき)な印象を感じられます。皆さんはどのような印象を持ちましたか。

令和2年12月17日(木)
恥(はじ)の文化
 アメリカの女性人類学者ルース・ベネディクト氏の著書「菊と刀 日本文化の型」によると日本は,「恥の文化」です。そして,欧米人は「罪(つみ)の文化」です。
 ある欧米人が日本で山登りをしたとき,あちこちにゴミなどが捨てられていることが気になり,その原因を調べました。すると,日本人の心無い登山者が捨てていくことが分かりました。さらに観察すると,彼らは周りに人がいると絶対にゴミを捨てないのですが,誰もいなくなったとわかると,平気でゴミを捨てるのです。
 これは「人が見ているからやらない」,「人が見ていないなら構わない」というように,「他人の目」が行動を決定する規準となっているということです。これがベネディクトのいう「恥ずかしいか,恥ずかしくないか」という基準で行動を決定する「恥の文化」ということです。これに対し,欧米ではゴミを捨てる人が少ないです。欧米人は「他人の目」ではなく「神様がいつも私を見ておられる」と言います。欧米人は神との対話の中で行動を決定しています。これが「罪の文化」です。つまり,日本の「恥の文化」は「他人の目」という相対的な基準であり,欧米では「罪」という絶対的な基準が人間の行動を決定しているのです。
 日本人は恥をかくことを嫌います。このような日本の伝統である「恥の文化」がなくなってしまうと,日本がおかしな方向へ行ってしまいます。
 「恥の文化」が存在する限り,人目を気にし秩序は保たれます。しかし日本人が「恥」を感じなくなれば,秩序のない時代に突入します。つまり,「恥ずかしいか,恥ずかしくないか」ではなく,「自分の欲求を満たすか満たさないか」という自分の欲求を基準に行動を決定するような「欲の文化」に移行する危険があるのです。スマホが普及し,いつでも誰でも写真や動画を撮り,あっという間にSNSで他人に情報提供ができる時代になった一方,それらの行動が個人の責任に任されることになり,個人の道徳観や倫理観がよりいっそう重視されます。明らかに道徳性に反する行為や恥ずかしい行動の画像を投稿する若輩者(じゃくはいもの)の行為は「罪」の意識も「恥」の意識もなく,「有名になりたい」という自らの欲求で行われているようで,日本が「欲の文化」に移行するのではないかと危惧(きぐ)しています。

令和2年12月16日(水)
単刀直入(たんとうちょくにゅう)
 「単刀直入」の意味は,すぐに重要なことに入ること。前置きを省きすぐ本題に入る。です。結論に至った経緯や理由・自分の考えなどを前置きとして述べるのではなく,すぐに要件や結論など本題を話すことを表す言葉です。
 「単刀直入」の由来は,中国の宋の時代の書物「景得伝灯録(けいとくでんとうろく)」に記されています。「単刀」は「一(単)振りの刀」,「直入」は「直接入っていく」をそれぞれ意味します。本来「単刀直入」は,「一振りの刀を持って一人敵の中に突入する」との意味合いを持つ言葉でした。
 話を本題からはじめる場合には,「単刀直入」であると相手に先に伝えておくことが,円滑なコミュニケーションにつながります。また,相手の話で本題のみを聞きたいときにも「単刀直入に言ってください」と最初に伝えておくことで,相手からスムーズに本題を聞き出すことできます。
 目上の人や外部の人に「単刀直入」の言葉を使う場合は,敬語をあわせて使います。「不躾(ぶしつけ)ながら」や「恐れ入りますが」などをあわせて使うことで,前置き抜きで結論に入ることの違和感や,話す内容によっては無礼と感じることを和らげる役割を果たします。
 「単刀直入」を使った会話文としては,
 「単刀直入に申し上げてもよろしいでしょうか」や
 「単刀直入に申し上げると家庭学習の充実のためには多くの障害があると思います」や
 「不躾(ぶしつけ)ながら単刀直入にお伺いしますが,2学期末テストの採点の判断はどのような基準でございましたでしょうか」,「問題が発生した状況と原因は十分理解しておりますので,単刀直入に結論だけお話ください」などがあります。
 「単刀直入」の「単刀(一振りの刀)を「短刀(短い刀)」と書くのは誤りです。「単刀」の「単」は「一(単)振り」を表しているため,「短(みじかい)」の漢字を使うと言葉の意味が異なります。志布志中学校の生徒の皆さんに単刀直入に申し上げると「努力なくして成果無し」です。努力は裏切りません。頑張ってください。